|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ケンタッキー : [けんたっきー] 【名詞】 1. Kentucky 2. (n) Kentucky ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 軍 : [ぐん] 1. (n,n-suf) army 2. force 3. troops ・ 北 : [きた, ほく] (n) north
南北戦争中の北軍では、ケンタッキー軍(Army of Kentucky)の名称を持つ軍が2回編成されているが、どちらも小規模でまた存続期間も短かった。南軍にもケンタッキー軍が存在したが、こちらも短期間で解散している。 ==1862年8月結成のケンタッキー軍== 1862年8月25日、ウィリアム・「ブル」・ネルソン(William "Bull" Nelson)少将は、ケンタッキー州リッチモンド付近に駐屯していた部隊の司令官に任命された。兵力は合計で2個旅団(1個師団以下)を超えるものではなかったが、ネルソンはこの部隊をケンタッキー軍と名付けた。この2個旅団は、マーロン・マンソン(Mahlon Dickerson Manson)准将とチャールズ・クラフト(Charles Cruft)准将が旅団長を務めた。創立から5日後、ほとんどが新兵で構成されるケンタッキー軍は、リッチモンドの戦いで大敗北を喫した。800人以上が戦死し、4,000人が捕虜となった。大量の捕虜を出し、軍団長のネルソンは負傷、第1旅団長のマンソンも捕虜となったため、軍は実質的に消滅してしまった。クラフトも負傷し、9月まで第2旅団長の地位にあったものの第2旅団の兵士も多くは捕虜となり、残存部隊はなんとかインディアナ州ニューオールバニに戻った。負傷したネルソンの後任として、チャールズ・C・ギルバート大尉が少将代行に昇進させられ(上級者が拒絶したため)、軍司令官となった。その後、ドン・カルロス・ビューエル少将が、ケンタッキー軍の残存部隊をオハイオ軍の第3軍団に吸収し、ギルバートは第3軍団長となった。なお、9月29日、ネルソンはジェファーソン・デービス(Jefferson C. Davis)准将に殺害された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ケンタッキー軍 (北軍)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|